Day5:サラエヴォ市内、内戦の跡

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旅行日時:2012/5/1

Hotel Hercを出て、昨日は暗くてよくわからなかったサラエヴォ市内を歩いて回ることにした。モスタルできれいだった川の色はここにはない・・・・しかし、サラエヴォを東西に流れるミリャツカ川はサラエヴォを象徴する川だ。
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サラエヴォは今でこそボスニア・ヘルツェゴビナの首都だが、内陸のそれ程大きく無い街なのに歴史の上では何度となく出てくる重要さを持っている。まずは第1次世界大戦が始まるきっかけとなった橋が向うに見えるラテン橋である。
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正直、なんてことない、小さな橋なのだ。ここでオーストリアの皇太子がセルビアの青年に殺され、オーストリアがセルビアに宣戦布告、世界を巻き込む第1次世界大戦が始まった。
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車も通れない、歩行者専用の橋。こう見てもやっぱり小さな小さな橋である。
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何故ゲルマン系のオーストリアが山間のスラブ系民族主体のボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエヴォをオーストリア領としたのか?何故オーストリアはセルビアに恨まれていたのか、自分の中でこれが疑問として上がってきた。当時この地域はオスマントルコに制服され、トルコの力が弱まるとロシアが同じスラブ民族ということで南下、それをよしと思わないオーストリアが半ば意地で併合したのがサラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナ一帯だったらしい。しかし、当時この地域に多く住んでいたのはセルビア人で、ゲルマン民族のオーストリアに併合されるのを面白く思わなかった。よってセルビア人がオーストリアの皇太子をサラエヴォで暗殺、というつながりになる。

しかし、民族を意識しないで生活している分にはサラエヴォはイスラム教とキリスト教とセルビア正教が共存する、とてもユニークな街である。旧市街に入ると正面にモスクのミナレットが見えるが、近くにはキリスト教の教会もセルビア正教会もある。
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この日は5/1のメーデーのため、店はほとんど閉まっており、ひっそりとしていた。
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旧市街を歩いて行くとカトリック教会のイエスの聖心大聖堂があり、中を見学したが撮影は不可。
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休みの日のおじさんたちはチェスに明け暮れていた。
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そして、先ほどのカトリック教会から1ブロックも行かないうちに近くにあるのはセルビア正教会。こちらも中は撮影禁止で教会の人はちっともフレンドリーではなかった。カトリック教会と違って椅子などが無く、がらーんとした中にキリストのイコンが飾られてあった。あまりキリスト教のようなきらびやかさはなく、モスクのようなシンプルさだった。
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旧市街を進むとオリンピックの聖火があった。サラエヴォオリンピックからのものか?
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旧市街を離れ、しばし歩いてみることにした。首都にしては少しさみしい人通り。アジア人は皆無。
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ボスニア・ヘルツェゴビナの旗もやっと色あせるぐらいの年月がたったのかな・・・この旗は長野オリンピックに間に合わせて制定されたとか。三角は3つの民族であるムスリム・セルビア・クロアチアを表し、色はEUカラーを使うことでEUに加入したいという現れらしい。(コソボも同様のコンセプト)
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こちらの方まで歩いてきたのは、ボスニア紛争で有名となったHoliday Inn。紛争中、外国人ジャーナリスト用にこのホテルだけは営業を続けており、報道関係者がここから中継していた。しかしここは紛争の最前線だったため、ホテルに居ても安全ではなく、半分位は砲弾で破壊されていたようだ。
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当時の様子がわかるYoutubeがあったので参考。1分56秒以降にHoliday Innが出てくる。

Holiday Innより西のトラム通りは通称・スナイパー(狙撃兵)通りと呼ばれていた地域。この地域は一般人も道を歩いていれば無条件に銃が向けられ打たれた。
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銃痕が生々しい。ボスニア内戦は1992年から1995年。20年弱停戦してから経っているが、このようなものが残っているのだ。
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川を渡ってセルビア人とムスリム人の激戦地となったクルバビッツァ地区に向かってみた。
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社会主義といえば、このトローリーバス。今でも走っている。
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グルバビッツァ地区のアパート。
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ここも銃痕が激しく、それがまだ残っていた。
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サラエヴォ自体はムスリム人の街だが、ここグルバビッツァは南のセルビア人の地区に近く、当時は複数の民族が混合して住んでいたようだ。ここをセルビア人勢力が支配下におこうとムスリム人に対して民族浄化を遂行した。民族浄化というのは、住む家を追い出すだけでなく、敵を殺し、更に敵の民族の女性を強姦し、子供を産ませることも意味する。
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再びスナイパー通りに歩いて戻った。このような背の高い建物には銃撃兵がいて、市民を襲撃していたのだろう。
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当時の様子はもちろん今は感じられないが、何となく人通りは少ない。
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紛争終結から20年近くたっているのだが、銃痕のある建物は残ったままだし、このトラムも相当古そうで、そのためか、サラエヴォは時が止まった社会主義都市のように感じた。
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サラエヴォオリンピックの84年の頃はチトーが80年に死んで、まだユーゴスラビアとして民族が協力していたころだ。それから10年もしないうちに戦争になってしまったのは何とも言えない気分になる。
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スナイパー通りから旧市街に戻ることにした。ん?マクドナルドのパクリのケバブ屋?
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旧市街まで戻るとこの辺はモスクもあることから、イスラム教っぽい雰囲気である。
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観光地だけ見ると、内戦の暗さはないのだけど、ね。
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旧市街のあたりはバルチャルシアと呼ばれ、イスラムのバザールが起源。確かにイスラム色強い。売っているものは前日のモスタルで売っていたようなトルコのティーセット。トルココーヒーも出していたのだが、いかんせん兌換マルクが無いので、飲むことができず・・・。
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当初の予定では11時ぐらいにはサラエヴォを去る予定だったが、結構歩きまわったので13時ぐらいまでは居た。お腹もすいたが、現金がないので、結局昨日の夜に行ったのと同じレストランに行った。また来たよ、と同じ店員に言って、ちょっと違う種類のシチューを食べた。内陸だと煮物しかないな・・・。
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ホテルに戻り車に乗り込み・・・・今日はベオグラードまで走らないといけないが、、最後に寄らなければならない場所がある。

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