Day4:アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所 – アウシュビッツ第1強制収容所

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旅行日:2013/12/23

ビルケナウからバスにのって、次は第1収容所の見学。集合場所だった煉瓦の建物の中が収容所の入り口。ここで中谷さんにガイド代を払った。当初言われていた250ズオチを6人で当分割りして一人当たり42ズオチ(1400円)になった。

第1収容所の入り口は有名なゲート”Arbeit Macht Frei” – 働けば自由になる- の門。DSC08059

Bの文字はひっくり返っているのは抵抗だ、という説もあるが真実はわからないらしい。
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高電圧がかけられていた鉄条網。2重になっている。
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塀の内側に入った。
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入口にはアウシュビッツにあった囚人オーケストラの写真があった。ユダヤ人で収容された人の中には音楽家も多く、レベルは高かったとか。彼らは演奏で収容者が列車で到着した時に迎えたようだが、「アウシュビッツは良い環境である」というカモフラージュの役割だったという。「オーケストラがあるくらいだから悪いところじゃないよ」と収容所に送られてきた囚人たちは思ったらしいが、実際は囚人たちは収容されることなくガス室直行であった。演奏者たちはその運命を知っていつつ演奏していたわけだ。演奏者たちは同胞民族を騙している事は知っていたが、自分の命を少しでも生きながらえるために嘘をかみ殺し、必死だったのだ。
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第2収容所のビルケナウとはことなり、第1収容所は煉瓦の3階建の建物で立派である。ポプラ並木は数年前までは大木が生い茂っていたが、大きくなりすぎて危険となったので切り倒し、数年前に植え替えたとのこと。今のこのくらいのポプラの大きさが、第2次世界大戦当時のアウシュビッツの風景とほぼ同じらしい。
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建物の中は博物館の展示があるので、中谷さんについて入館。
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アウシュビッツの収容者がどこから来たのか、という地図。北はオスロから南は旧ユーゴ諸国まで幅広く、ビルケナウでみた貨物列車で収容されたのだろう。
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1940年から1945年の約5年間でアウシュビッツには130万人が収容され、そのうち110万人がユダヤ人、ユダヤ人以外のポーランド人が14-15万人、ロマ人が2.3万人、ソビエトからの戦争犯罪人が1.5万人、その他犯罪人が2.5万人だった。130万人のうち、110万人がここで殺され、殺された90%がユダヤ人だったとのこと。
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殺すことが正当化されたナチスのマインドというのは興味深い。「ユダヤ人をはじめとする人たちから、ドイツ人・ドイツ国家が自由にならなければいけない」というマインドだったのだ。ユダヤ人がいるとドイツ人が自由になれない、だから収容し、滅亡させるのだ、という心理は究極である。DSC08072

しかし、そんな心理はナチスだけだろうか?日本でも、もし、移民・・・たとえば日本に移民してきた韓国人や中国人が日本で幅を利かせて、要職に就き、成功していったら、それをすんなり受け入れる準備が日本人にはできているだろうか?「心が追い付かない」・・・そんな一言を中谷さんは言っていたのを覚えている。

ドイツ人ではない民族が、ドイツ人の職を奪い、上り詰めるのを心から喜べるか?喜べなくて、人々の心の中には嫉妬心が生まれたのだろう。誰しも、外国人ではだめだ、と言えないにしても、嫉妬心ぐらいは持つだろう。だからナチスが単一民族による民族妥結のために他民族を排除する、という方針を打ち出し、収容所政策を取ったとしても、自分は手を下さなくても、否定はしない傍観者にドイツ国民はなったのかもしれない。しかしそんなことは今の私たちの世界にも十分起こりうる状況だと気が付いた。

収容される人々。
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収容所のガス室の断面図。
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ガス室殺戮に使われたチクロンB。これは殺虫剤の薬品だったが、虫を殺す薬剤で人を殺していた。会社自体は今も存在する会社である。
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チクロンBの山。これはナチスが手を下したほんのひとかけらである。
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アウシュビッツ・ビルケナウの地図。色で囲われたところがガス室があったところ。
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収容者は労働者可能な囚人と不可能な囚人に選別されたが、最後の方は9割方、収容される間もなく、ガス室送りだったという。選別の際に囚人たちの備品が没収され、大量のものが展示されていた。まずは大量のメガネ。
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ユダヤ人の祈り用の布。ユダヤ人たちは「安住の地」を求めてきたため、宝物に相当するものを沢山持ってきていたらしい。
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義足の数々。
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新しい生活のために持ってきた大量の鍋やボウルや食器。
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大量の鞄。
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一旦預けた後、返してあげる、という説明のため、鞄には持ち主と住所が書かれている。しかし、一旦預けたカバンを取り戻した人なんていなかった。
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子供の衣類。かわいらしい洋服でおめかししてきた子供も、ここで生きることができた期間は短かったと伺った。
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大量の靴。
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よくよく見ると子供の靴もたくさんあった。
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おびただしい数である。これがほんの一部だったと思うと、その殺戮の規模に驚かされた。
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こんなように、部屋の両側に大量の靴があった。
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博物館の見学で1か所だけ、撮影禁止の場所があるのだが、そこは女性の髪の毛の山だった。収容された女性は髪をそられ、髪の毛が集められた。それは何のためかというと、なんと、その人毛を使ってカーペットとしてアウシュビッツから出荷してたという。なんてこと!それを知らないで買って使っている人もいるだろうに。

新しい生活のための大量のブラシ、ひげそり用のソープを泡立てるブラシなど。
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靴のワックス。
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これらのものを囚人から没収し、選別したのは同じ民族のユダヤの囚人たちだった。殺された囚人からは金歯も没収したという。それをナチスは没収された物品、例えば金30g、カーペット何百枚、という”もの”と”数字の羅列”で管理していたという。自らの手を下さなければ、ただのもの。ここにも、ドイツ人たちにやっていることが悪いと思わせない”システム”があった。

囚人たちの服も展示されていた。
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囚人たちは一目で見て何の容疑で収監されたかが色分けでわかるようになっていた。ユダヤ人だけではなく、犯罪者や同性愛者、障碍者なども収監されていたという。民族が妥結するにはユダヤ人と役に立たない人は消す、という究極の方針。
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収容された人たち。日付を見ると長く入れて3か月、短いと数日で処刑された。
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一瞬男性に見えるかもしれないが、髪をそられている女性の受刑者。中には髪の長いままの人もいるが、そういう人たちは特権を与えられた人で生きている期間も長かった。みな命が惜しく、同じ民族をだますことであっても、自分の命と天秤にかける、究極の選択の中にあった人たちばかりだった。
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実際、大量の囚人が収容されていたとはいえ、脱走者は驚くほど少なかったと中谷さんは言っていた。それは囚人同士で監視させ、チームの中から脱走者がでたらチームごと処刑のルールがあったらしい。中には脱走しそうな人を囚人が告げ口したりもしたという。皆命が惜しいから、そうしたし、お互いを管理するシステムを作り上げたドイツのやり方も手が込んでる。
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壁は政治犯の処刑の場。ピストル処刑の為に壁の部分にもう1枚の壁をつけたということだ。
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ここの鉄塔で脱走班を絞首刑にして、見世物にしたとのこと。こうすることで脱走の抑制を図ったらしい。
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高圧線危険。
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2段階も張られると脱走はほぼ不可能だっただろう。
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第1収容所の奥の方に小高い丘があるが、煙突の下はガス室である。
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このガス室を正面に右をみると、家が見えるが、ここにアウシュビッツ強制収容所の所長をしていたヘスが家族と奥さんと住んでいた。目の前で大量に死んでいる施設のすぐ横で、自分は家族と平和に暮らしていたのだ。その温度差を受け入れられる心理は信じがたい。
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その所長のヘスは収容所が解放されたのち、彼だけは皆の前で公開で処刑してほしいという声から、この絞首台で処刑された。
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ガス室の中は入ることができた。案内してくれた中谷さんの後に続いて我々も入った。
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ガス室は第1収容所の方が小さかったとはいえ、結構広い空間である。右上にはシャワーの管が付いているが、これはガス室に入る囚人たちにシャワーを浴びるためだ、と言っていたのをガス室に入ってからも最後までだまし続けるために存在したもので、実際はここから水なんて出やしなかった。
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天井には四角い穴。ドイツ人はここからチクロンBを投げ入れるだけで、死んでいくユダヤ人を見ることも、埋葬することもしなかった。辛い仕事はすべて囚人たちが行った。
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ガス室のすぐ隣には焼却機があり、ここで死体が燃やされた。
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とてもきれいな夕焼け。囚人たちも同じ景色を見ていたことだろう。毎日この夕暮れを見ながら、囚人たちは何を考えて生きていたのだろうか。
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収容所を見学しただけでは、ただ建物と展示物を見ただけだったと思うが、中谷さんの説明で、いろいろと思いを巡らすきっかけとなったと思う。なぜナチスが?と思ったが、今だって民族闘争が絶えないだろう。そう思うと、ナチスの頃だけが特別だったのではなく、現代のこの世の中でも起こりえる心理を人間は持っていると感じた。ただ、それがドイツ人だっただけなのではないかと・・・・・。

見学を終えたのは16時少し前で、もうほぼ日が暮れていた。正面からバスを乗る2名と別れ、私を入れて残り4名はミニバス組だったので、中谷さんと一緒に裏門へと向かった。中谷さんはさばさばしているので、さらっと、さようなら、という雰囲気で言葉を交わし、クラクフへ戻った。

クラクフに着いたのは18時過ぎ。駅のクリスマスツリーがきれいだった。一緒に中谷ツアーに参加した人と旧市街に向かうことにした。
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夜の旧市街はライトアップがきれい。
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クリスマスイブの前の日、23日はもうかなり人通りが少なくなっていた。日曜日がピークだった気がする。
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屋台はまだやっていたのでよかった。
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腹ごしらえタイム。
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料理はドイツよりもどれもおいしそうだな~。
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ホットワインときのこのソテーをつまんだ。最初ツアーの人と私と二人で話していたら、アウシュビッツ正面で別れた2人が前を通ったので偶然再会し、更に買い物をしてくると駅で別れた2人もまた前を通ったので結局中谷ツアーの6人と屋台で酒盛りになった。全員日本人だけれども、私以外みんな海外在住なので面白い経歴の人も多く、アウシュビッツのことやお互いのことを話しながら楽しい時を過ごした。
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アウシュビッツ中谷ツアーの仲間とは、今後もいつかどこかでつながっていこうと、と最後にはFacebookとメールアドレスを交換した。こういう旅の出会いがあるから、旅って素晴らしい。沢山の学びと出会いで忘れられない一日となった。
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